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2019年10月25日

情の時代のポピュリズム──情動とカリスマから考える  【お知らせ】

第36回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

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情の時代のポピュリズム
情動とカリスマから考える


 柿並良佑(山形大学)
 
情動(の政治)について考えるとはどのようなことか?(仮)

山本 圭(立命館大学)
 
指導者とは何か──ポピュリストと政治的カリスマ

日時 2019年10月25日(金)17:00~19:30
 場所 新潟大学 五十嵐キャンパス
    総合教育研究棟B棟5階 プレゼンルーム

ポピュリズムは従来、大衆迎合主義、衆愚政治などと訳され、侮蔑的な意味で用いられてきました。しかしこんにちの民主主義の政治のもとで、特定のイデオロギーや党派、国家、民族、宗教、人種等々に還元されない多様な民衆の趨勢をすくい上げる言葉としてこの語が新たに取り沙汰されるようになっています(たとえば英国の政治学者シャンタル・ムフのいう「左派ポピュリズム」など)。
 そうした新たなポピュリズムの担い手は誰でしょうか。少なくともポピュリズムは人々の情動の高まりと切り離せないようにみえます。多くの思想家がそうした情動・感情をいかに動員し組織するのかを問うてきましたが、そもそも情動はコントロール可能でしょうか。情動やポピュリズムを論じているとき、実は私たち自身がつねにそれに巻き込まれてしまう危険な「何か」に私たちは遭遇しているのではないでしょうか。
 「カリスマ」と呼ばれる指導者像はそうしたもののひとつでしょう。しかしカリスマと一言でいうとき、ポピュリズムが大きな力をもつ現代政治のなかで、単純に危険なものや忌避すべきものとみなすだけで本当によいのでしょうか。「民主的カリスマ」というものを考えることができないでしょうか──

356984.jpg 第36回新潟哲学思想セミナーは、講師に柿並良佑氏と山本圭氏をお迎えします。柿並氏は、フランス現代思想を専門とし、とりわけジャン=リュック・ナンシーの哲学を中心に、情動の政治の諸問題に取り組んでおられます。山本氏は、現代政治理論を専門とし、とりわけエルネスト・ラクラウの政治思想を中心に、現在では「左派ポピュリズム」研究の第一人者というべき論客として活躍されてます。今回のセミナーでは、ポピュリズムと呼ばれる現象が政治の場面を覆うようになった現代、情動とカリスマをキーワードにして、いかにしてポピュリズムを再定義するか、いかにして政治のそうした現在を捉え直すのか、といったことにかんしてお話しいただきます。入場無料、事前予約等不要です。多くのみなさまのご来場をお待ちしております。 


◎ 講師プロフィール:柿並良佑(かきなみ・りょうすけ)1980年生まれ。山形大学人文社会科学部専任講師。専門は、現代フランス哲学。著書に『〈つながり〉の現代思想──社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(共著、明石書店、2018年)、『21世紀の哲学をひらく──現代思想の最前線への招待』(共著、ミネルヴァ書房、2016年)他。山本圭(やまもと・けい)1981年生まれ。立命館大学法学部准教授。専門は、政治思想史、現代政治理論。著書に『不審者のデモクラシー──ラクラウの政治思想』(岩波書店、2016年)、『〈つながり〉の現代思想──社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(共著、明石書店、2018年)他。


主催:新潟哲学思想セミナー

共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人文学部研究交流費
お問い合せは宮﨑まで
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2019年9月18日

第35回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

第35回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に東京大学の古田徹也先生をお招きし、先生の著書である『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』の刊行に合わせ、「運とともに/運に抗して──古田徹也著『不道徳的倫理学講義』を読む」というテーマのもと、本書の合評会というかたちで行われました。

AD198309-3EB8-43B2-A8BC-D0AFC59AF7F7.jpeg始めに私から、大雑把にではありますが、本書の紹介とコメントをさせていただきました。本書はまず、「運」がもつ多様な奥行きを明らかにしつつ、「運」の変遷を歴史的に探っていきます。古田先生によれば、「運」は(私たちが通常イメージするような)「偶然」という意味のほかに、それとは相反するような「必然」、さらには「幸福」といった意味をも合わせもっています。こうした多層的な意味をそなえる「運」が、歴史的にどのように扱われてきたのか──本書の醍醐味の一つとして、このことを古田先生の丁寧な論述と共に辿り直していく点が挙げられるでしょう。

「運」の歴史を捉え直す中で、本書の議論は、次第に「運」と「道徳」の関わりへと移っていきます。飛び出してきた人をトラックで轢いてしまった、という「不運」な出来事は、いわゆる「道徳」の枠内では、本来責任を取る必要のないものです。というのも、「人が飛び出してくる」という予想外の出来事(すなわち、「運」が絡む出来事)は、私たちがコントロールできるようなものではないからです。ですが、仮にこういう出来事が起きた場合、私たちは後悔に苛まれたり、誠意を込めて謝罪をしたりするでしょう。「道徳」に反するこうした行為を、私たちはどのように考えればよいのでしょうか。本書のクライマックスにて、タイトルにもなっている「不道徳的倫理学」がどのようなものであるかを、私たちは目撃することとなります。

614BBA89-DB36-405E-8C29-5CC1085F8FB0.jpeg以上のように内容を概観したのち、本学の宮﨑裕助先生からコメントをしていただきました。宮﨑先生はまず、想定外の出来事(すなわち、「運」が入り込む出来事)に対して私たちが必要以上に敏感になっている、という現代の状況を確認することで、「運」を問うことの重要性をあらためて指摘します。加えて、例えばスミスによるストア派への批判について、あるいは「運」がもつ「幸福」の要素についてなど、本書の内容に関するコメントがありました。

そうしたコメントの一つに、「倫理学」の内部における葛藤をどのように捉えるべきか、というものがありました。古田先生によれば、「倫理学」は本来、「人一般にとって正しい行為」を問うのみならず、「この私はどういう生き方を選び取るべきか」という問いも含むといいます。普通はこうすべきなのだが、私はこうしたい──このような葛藤を、宮﨑先生は「遵守すべき倫理」と「現実を創り出す倫理」との葛藤と捉えます。後者の「倫理」をどのように考えるべきか、という本書に残された問いを、宮﨑先生はキルケゴールのイサク奉献の例などを用いて、さまざまな視点から考察していました。

47045BFA-405D-446C-A0D6-824F66CA088A.jpegその後、古田先生からはいくつかの応答が成されました。そもそも本書の試みは、歴史の中で埋もれてしまった「運」についての主張を、「生きた言葉」として蘇らせるものであったということ(この点は先生の著書、『言葉の魂の哲学』の議論とも関わるでしょう)。また、倫理学が問題とするのは主として「不運」な出来事であって、「幸運」と「不運」には非対称性があるということ。こうしたことが、重要な論点として挙げられました。

宮﨑先生のコメントに対しては、カントの思想や言語行為論などをも巻き込みつつ、本書のさらなる拡がりに向けて議論が交わされました。また、とりわけ重要な論点として、「倫理学」という学問の「可能性」(ないし「取り柄」)はどこにあるのか、というものがありました。古田先生の考えは、世界に対する「見方」を変えること、あるいは「見方」を創り出すこと、そうしたことが挙げられるのではないか、というものでした。このような意味では、先述の「生きた言葉」との論点とも関わりますが、本書は「倫理学」に対する新たな「見方」を提供する、という役割も担っているのではないでしょうか。

また、フロアに議論を開いたあとでも、多種多様な論点が見受けられました。そもそも「運」が入り込む出来事はどのように分類できるのか。本書の冒頭にあるように、人生はやはりすべて「運」なのではないか。いずれも重要なものでしたが、考えれば考えるほどに、ますます「運」という概念の複雑さが明るみとなり、このテーマの奥深さを痛感させられることとなりました。

最後になりますが、今回新たに考える素材を提供してくださった古田先生、本学から登壇していただいた宮﨑先生、そして私事ではありますが、卒業生である私にこのような機会を設けてくださった方々に感謝を申し上げ、第35回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

【文責=東京大学総合文化研究科博士前期課程 渡邉京一郎】

2019年9月14日

第34回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第34回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に熊本大学の佐藤岳詩先生をお招きし、「倫理学における真理と誠実さ――バーナード・ウィリアムズTruth and Truthfulnessによせて」というテーマのもと開催されました。

unnamed-4.jpg佐藤先生はまず導入として、ポスト・トゥルースと呼ばれる現代の状況では「客観的な事実」と「個人にとって大切なこと」の折り合いの悪さというものがある、とお話されました。そして佐藤先生はこの問題を考えた哲学者としてバーナード・ウィリアムズを紹介され、彼の最後の著作であるTruth and Truthfulnessについて解説して下さいました。

ウィリアムズによると、現代社会には「真理に対する誠実さへの要求」と「真理それ自体への疑いのまなざし」があり、これらを調停することが現代の哲学の課題であるといいます。誠実であることは「正直さ」と「正確さ」という2つの徳によって成り立っていて、また人が誠実であるためには、現実を歪めるような幻想や願望に抵抗する必要があるのです。「正直さ」に関して、ウィリアムズは嘘をついたときの罪悪感や後悔といった感情に着目し、カント倫理学を批判したと佐藤先生は解説されました。

unnamed-2.jpgしかし真理をめぐる話はここで終わるわけではなく、ウィリアムズによると、現代では真理の実在そのものが信じられなくなってきているために、「真正さ」という理想が出てきているそうです。「真正さ」とは「本当のわたし」が存在しているとする考え方に基づいていますが、それはときにエゴイズムやナルシシズムに陥ってしまうものでもあるといいます。「真正さ」について理解を深めるために、佐藤先生はアメリカの哲学者テイラーを紹介されました。テイラーを踏まえてウィリアムズの主張を読み解くと、自己理解は他者との関係の中でしか育まれないからこそ、人は「真正さ」を貶めてしまわないようにするために「正確さ」と「正直さ」を失ってはいけないのだといいます。

Truth and Truthfulnessの最後でウィリアムズは真理の実在について書いていますが、佐藤先生はウィリアムズの論点の掘り下げの甘さに対して批判をしつつも、ウィリアムズの中心にはアイデンティティを巡る思索があったのではないかと考察をされました。しかしまた同時に、佐藤先生はそこがウィリアムズの限界であり、彼が現代倫理学の枠組みから抜け出せないことの事由なのではないか、ということも示唆されて発表を閉じられました。その後は時間を目一杯使っての質疑応答も行なわれ、興味深い議論が展開されました。ポスト・トゥルースという言葉もすでに目新しいものではなくなってしまった現代ですが、真理というものを取り巻く人間の態度について、改めて深く考えるよい機会となりました。

最後になりましたが、今回のセミナーでご講演頂いた佐藤岳詩先生に感謝申し上げ、第34回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部人文学科 心理・人間学プログラム主専攻 牛澤啓]

2019年9月12日

倫理学における真理と誠実さ──バーナード・ウィリアムズ Truth and Truthfulnessによせて  【NiiPhiS】

第34回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

倫理学における真理と誠実さ
バーナード・ウィリアムズ Truth and Truthfulnessによせて

講師 佐藤岳詩(熊本大学)


日時 2019年9月12日(木)16:30~18:00
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 D棟1階 大会議室


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◎ 講師プロフィール:佐藤岳詩(さとう・たけし)1979年生まれ。熊本大学文学部准教授。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門は、R・M・ヘアを中心としたメタ倫理学と規範倫理学。著書に『メタ倫理学入門──道徳のそもそもを考える』(勁草書房、2017年)、『R・M・ヘアの道徳哲学』(勁草書房、2012年)、『性──自分の身体ってなんだろう?』(共著、ナカニシヤ出版、2016年)他。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター

お問い合せは太田まで
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2019年9月13日

「運」とともに/「運」に抗して──古田徹也著『不道徳的倫理学講義』を読む  【NiiPhiS】

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第35回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)

「運」とともに/「運」に抗して
古田徹也著『不道徳的倫理学講義』を読む

 


古田徹也(東京大学)
宮﨑裕助(新潟大学)
渡邉京一郎(東京大学)

 


日時 2019年9月13日(金)16:30〜18:30 
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス
   総合教育研究棟D棟1階大会議室

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テストでヤマを張っていた箇所が「運良く」当たった。信号待ちで次の電車を「運悪く」逃してしまった。人生で起こるこうした出来事が示すように、私たちはときに「運」というものに振り回される。この「運」という要素は、「道徳」(すなわち、「こうすべきである」という「規範」)を扱う倫理学とは、相性が悪いように思われる。だが、「運」が私たちの人生に大きな影響を及ぼすのもまた事実である。「運」と「道徳」は両立するのだろうか。あるいはこう問えるかもしれない。「運の要素を受け入れて取り込む倫理学──言うなれば、不道徳的倫理学──とはどのようなものでありうるのか」──。

第35回新潟哲学思想セミナーは、以前本学で教鞭をとられていた古田徹也氏をお迎えします。今回のセミナーは、今年5月に出版された氏の著書である『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』の合評会となっています。著書の紹介とコメントを本学人文学部を卒業後、東京大学大学院に進学した渡邉京一郎氏にお願いし、もうひとりのコメンテーターとして、本学人文学部准教授の宮﨑裕助氏に登壇していただく予定です。多くのみなさまのご来場をお待ちしております。

 

◎ プロフィール

古田徹也(ふるた・てつや)1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。東京大学人文社会系研究科准教授。専門は哲学・倫理学。著書に『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』(ちくま新書、2019年)、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(角川選書、2019年)、『それは私がしたことなのか──行為の哲学入門』(新曜社、2013年)他。

宮﨑裕助(みやざき・ゆうすけ)1974年生まれ。新潟大学人文学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は哲学・現代思想。著書に『判断と崇高──カント美学のポリティクス』(知泉書館、2009年)、『ドゥルーズの21世紀』(共著、河出書房新社、2019年)他。

渡邉京一郎(わたなべ・きょういちろう)1995年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程学生。論文に「退屈、技術、故郷──なぜ退屈が根本気分として選ばれたのか」(日本哲学会 web 論集『哲学の門──大学院生研究論集』第1号)。

 

◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観研究推進センター
お問い合せは宮﨑まで
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2019年3月27日

第33回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【NiiPhiS】

第33回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に明治大学の長田蔵人先生をお迎えし、本学からは人文学部の阿部ふく子先生に登壇していただき、「〈コモン・センス〉への問い──近代ドイツ哲学の発展史から」というテーマのもと開催されました。

最初に本学の院生である私の方から、「コモン・センス概念史の概略」として、コモンセンスの古代ギリシアとローマの伝統について簡単な説明を行ない、その後お二人の先生に発表していただきました。

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阿部先生は、「コモンセンスと哲学」と題して、そもそも「コモンセンス(常識)とは何か」という問いから出発してお話ししてくださいました。阿部先生は、過去に行なわれた「普通ではないことは非難されるべきことか」という問いでの哲学対話を取り上げ、何もないところからコモンセンスの定義や源泉を探ってみると、コモンセンスと哲学の間にはある種の前提や葛藤があると気づき、両者の境界がわからなくなってしまう、とおっしゃいます。阿部先生は、哲学においては常識と哲学は異なると分断されがちだが、こうした問題には近代の哲学者たちでさえ悩まされていた、と指摘されます。

阿部先生は、このように常識と哲学の関係を論じた哲学者を、近代ドイツの哲学者に絞って紹介されました。18世紀ドイツは、従来の学校哲学から脱却しよう、哲学を世俗化しようという啓蒙思想が興隆した時期であり、一般の人々の「普通の感覚」に配慮した通俗哲学が流行していたと言えます。この通俗哲学は、その後カントや、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論の哲学者に批判されることになります。阿部先生は、このような流れにコモンセンスVS哲学という対立を見ることができる、と述べられました。

さらに阿部先生は、このようにコモンセンスVS哲学という構図をもちつつも、啓蒙思想の流れのなかで、哲学は引きこもりすぎてはいけないし、通俗哲学も通俗化しすぎて骨抜きになってはいけないと使命感を抱いて、それを折衷しようとした哲学者がおり、それがニートハンマーである、と説明されました。ニートハンマーによれば、「常識とは哲学がそれと矛盾をきたさぬよう尊重するべき「至上の声」という否定的な基準」であるとされます。常識はそれ自体で普遍的に妥当することを求めますが、哲学によって否定され、しかし哲学もまた、常識の「至上の声」に矛盾することがあってはいけない、とされます。お互いに矛盾することなく両立し、かつ哲学が優位にあるべきというのが、ニートハンマーの主張です。しかし阿部先生は、こうしたニートハンマーの主張では、「常識の妥当性の要求=哲学の要求する妥当性要求」ということが結びつかず、そこを明確化したのがヘーゲルであると強調されました。

bPfsgnaFEX4uulx1553714451_1553714513.jpg阿部先生は、20世紀にコモンセンスに取り組んだドイツ哲学者としてローゼンツヴァイクなどについても言及され、最後に現段階での関心や問いに触れて、発表を閉じられました。

長田先生は、「コモン・センスの哲学と批判哲学」というタイトルのもと、コモンセンスの哲学に対するカントの問題意識を、トマス・リードの主張に照らして捉え直すことで、カントがコモンセンスの哲学に対して抱いている危惧の内実をより詳しく理解すること、そしてその理解を通じて、コモンセンスではなく理性の立場をとるべきであるとカントが考えるのはなぜなのかということについて、お話ししてくださいました。

カントにおいてコモンセンスが問題となった背景には、いわゆる「ゲッティンゲン書評」において、通俗哲学者であるガルヴェとフェーダーがコモンセンスの立場からカントを酷評していたということがあります。「ゲッティンゲン書評」は、『純粋理性批判』の「純粋理性の歴史」のなかで、カントがコモンセンスに依拠する自然主義的方法が形而上学の方法として不適切であると述べたことに対して批判しており、これを受けてカントは『プロレゴーメナ』で再批判を行なっています。とはいえ、カントはコモンセンス自体を否定していたわけではなく、コモンセンスVS哲学とは考えていない、と長田先生は指摘されます。たしかにカントは、経験的認識や道徳的判断においてはコモンセンスの役割を認めています。長田先生は、カントがしようとしていたのは、こうした経験の世界を超えるような、神や自由といった伝統的な形而上学の問題において、コモンセンスをいかに正当化できるのかということであって、コモンセンスをコモンセンスによって正当化することはできないので、カントはコモンセンスから離れていくことになった、と説明されました。

続いて長田先生は、「思考方向論文」について言及され、カントが、形而上学的問題を考察するうえで自分たちの思考を正しく導いていくのは、コモンセンスなのか理性なのかという問いを設定し、そのうえで理性の立場を取っている、ということを説明されました。メンデルスゾーンが『朝の時間』において、コモンセンスと理性を同根の能力とみなしているのに対して、カントは両者を区別しなければならない、としています。長田先生は、こうした区別の内実はどのように持たせられるのかということを考えるために、トマス・リードの議論に目を向けるべきとして、論を展開されました。

IMG_1191.jpeg哲学者は、コモンセンスが正しいものを教えてくれるにもかわらず、それをわざわざ理性の法廷にかけて、理性でもって証明しようとしており、それがそもそもの間違いである、とリードは主張します。リードによれば、私たちは物質的世界や心が存在するということを常識的に知っており、それをコモンセンスが教えてくれる信念として理解しています。リードは、そういう信念を成り立たせている原理は、経験的に得られるものでも理性によって証明できるものでもなく、「信念や知識を伴った把促が、単純把促に先行しなければならない」と主張しています。長田先生は、こうしたリードの主張は、カントが超越論的演繹論で述べている、あらかじめ知性が結合したものでなければ、私たちは分析することができないという主張に非常に近く、ヒュームの懐疑論を乗り越えようとするうえで、二人は同じようなアイディアを持っていた、と指摘されます。しかしながら、物質や心の存在といった信念の示唆を受けるというコモンセンスの原理では、自然神学の問題に直結してしまいます。こうしたことを危惧して、原理の妥当性の範囲をきちんと確定すべきだと考えていた点で、カントはリードと異なっていた、と長田先生は強調されます。

さらに長田先生は、こうしたカントの立場を理解するのに役に立つ概念として、「真理の所有」の主張がある、と指摘されます。コモンセンスの主張は、まさに真理の所有であるのに対して、カントは、真理の所有の主張をしようとするのではなく、私たちが真理を獲得できたかできないかを見極める試金石が理性に求められるべきであると考えます。つまり、理性は自分の主張が間違っているかもしれないと考えることができ、だからこそ、理性に信頼がおける、ということになるのです。長田先生は、こうしたカントの主張こそが、常識同士が衝突したときにはどうするのか、ということを考えるうえで役立つのではないか、ということを示唆されて発表を閉じられました。

フロアを交えた議論では、常識のなかにも精査されて保たなければならない常識があるのではないかといった問いや、尊属殺人重罰規定の違憲判決の話と絡めて、社会通念上という文脈の曖昧さについて議論を投げかけるようなコメントもあり、興味深い討議の場となりました。

最後になりましたが、今回のセミナーのために遠方よりお越しくださいました長田先生に感謝申し上げ、第33回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士後期課程 高畑菜子]

2019年1月25日

〈コモン・センス〉への問い──近代ドイツ哲学の発展史から  【NiiPhiS】

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第33回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)

〈コモン・センス〉への問い
近代ドイツ哲学の発展史から


日時 2019年1月25日(金)16:30〜18:30 *延長の場合あり
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス
   人文社会科学系棟 B棟2階 第一会議室

 高畑菜子(新潟大学大学院)

 阿部ふく子(新潟大学)

 長田蔵人(明治大学)
  「コモン・センスの哲学と批判哲学」

  *入場無料、事前予約不要。お気軽にご参加ください。


 

◎ プロフィール

高畑菜子(たかはた・なこ)新潟大学現代社会文化研究科博士後期課程学生。専門は、カント倫理学。主要業績としては、「カント倫理学成立史における「判定」と「執行」」(東北哲学会、2017年)他。

阿部ふく子(あべ・ふくこ)新潟大学人文学部准教授。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は近代ドイツ哲学、哲学教育。主要業績として、『思弁の律動――〈新たな啓蒙〉としてのヘーゲル思弁哲学』(知泉書館、2018年)、『人文学と制度』(共著、未來社、2013年)、ヴァルター・イェシュケ『ヘーゲル・ハンドブック』(共訳、知泉書館、2016年)他。

長田蔵人(おさだ・くらんど)明治大学農学部専任講師。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は、近代ドイツ哲学史。主要業績として、『新・カント読本』(共著、法政大学出版局、2018年)、「カントの事象性と感覚印象の理論――スコトゥス的観点からの再検討」(日本カント協会、2017年)「スコットランド啓蒙の形而上学」(日本カント協会、2015年)他。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。


主催:新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)
共催:平成29年度公益財団法人上廣倫理財団研究助成/新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人文学部哲学・人間学研究会
お問い合せは宮﨑まで


→ポスターはこちら



2018年11月 2日

第32回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【イベントの記録】

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第32回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に筑波大学から佐藤嘉幸先生、龍谷大学から廣瀬純先生をお招きし、「ドゥルーズ゠ガタリと68年5月」というテーマのもと開催されました。

94BEB758-704F-42B9-8D0B-71E16E029A22.jpeg佐藤゠廣瀬先生のお話は、ドゥルーズ゠ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』「六八年五月は起こらなかった」の読解を踏まえて、68年5月とは何だったのか、ドゥルーズ゠ガタリの政治哲学を通してどのように現代日本の社会状況を読み解くことができるのか、ということを明らかにする興味深いものでした。

『アンチ・オイディプス』において、ドゥルーズ゠ガタリは服従集団と主体集団とを対比させています。服従集団では、欲望が権力に従属します。それに対して、主体集団では、権力が欲望に従属します。欲望が権力に服従しないという意味で、主体集団は分裂者的です。佐藤先生は、68年5月に自然発生的に生まれ、各地の闘争の指揮をとった講堂委員会こそ、分裂者主体集団ではないか、とおっしゃいました。

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『千のプラトー』では、マイノリティ公理闘争とマイノリティ性への生成変化が主題となります。マイノリティ性への生成変化とは、平たく言うと人々がマイノリティ性になるということです。佐藤先生は、『アンチ・オイディプス』でも『千のプラトー』でも、主体集団の実現の前には必ず、利害や法権利の水準での闘争があることを強調されました。

廣瀬先生は、「六八年五月は起こらなかった」からドゥルーズの変化を読み取ります。廣瀬先生は、ドゥルーズとともに68年5月を政治的にも経済的にも安定した「よかよか社会」で起こった純粋な出来事ととらえます。ドゥルーズにとって、もはや68年5月はマイノリティを前にしたマジョリティの闘争でした。マジョリティは、自らがマジョリティであるという現状に「恥辱」を感じて、マイノリティ性へと生成変化します。それは、新たな主体性への創造的な転換なのです。

IMG_1182.jpeg質疑応答では、生成変化するとはどのようなことであるか、グローバルな巨大資本に対するわれわれのイメージ、ドゥルーズの政治的な立場における葛藤といった事柄について活発な議論が交わされました。また、SEALDsような近年の話題に触れる場面もありました。予定していた終了時間が40分も延長になり、非常に白熱したセミナーとなりました。

最後ではありますが、今回のセミナーでご講演していただいた佐藤嘉幸先生、廣瀬純先生に感謝申し上げ、第32回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

[文責=新潟大学人文学部人文学科心理・人間学プログラム専攻 金田康寛]

2018年9月15日

ドゥルーズ゠ガタリと68年5月  【お知らせ】

第32回 新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 

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ドゥルーズ゠ガタリと68年5月


講師 佐藤嘉幸(筑波大学)
   廣瀬純(龍谷大学)


日時 2018年11月2日(金) 18:15~19:45
場所 新潟大学 五十嵐キャンパス
   総合教育研究棟D棟1階大会議室

ちょうど半世紀前、19685月パリの学生運動に端を発した社会変革運動は、フランス全土、そして世界中へと波及していった。685月(革命)の経験は、ドゥルーズガタリの共同作業にいかなる影響を与えたのだろうか。この共同発表では、佐藤嘉幸・廣瀬純三つの革命ドゥルーズガタリの政治哲学での成果を再考しながら、685月と、「20世紀の資本論」とも言われるドゥルーズガタリのアンチ・オイディプス1972年)、千のプラトー1980年)、そして、1984年になってはじめて書かれた論文「685月は起こらなかった」の関係について考えてみたい。

 

51MxUbzsarL._SX338_BO1,204,203,200_.jpg第32回新潟哲学思想セミナーは、講師に佐藤嘉幸氏と廣瀬純氏をお迎えします。佐藤氏は、フランス現代思想・社会理論を専門とされており、フーコーやドゥルーズなどのポスト構造主義以後の思想を手かがりに、権力メカニズムの現代的変容や社会変革の可能性について研究をされています。廣瀬氏は、映画論、現代思想を専門とされており、ドゥルーズの映画論である『シネマ』を中心にフランス現代思想はもちろん、イタリアのアウトノミア以降の現代社会思想など幅広く研究されています。今回のセミナーでは、1968年5月にパリで起こった学生運動を契機に全世界へと広がった社会変革運動が、ドゥルーズ゠ガタリにどのような影響を与えたのかという内容で講演していただきます。多くのみなさまのご来場をお待ちしております。 


◎ 講師プロフィール:佐藤嘉幸(さとう・よしゆき)1971年生まれ。筑波大学人文社会科学研究科准教授。専門は、フランス現代思想、権力理論。主な著書は、『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』(人文書院、2008年)、『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学』(人文書院、2009年)、『脱原発の哲学』(田口卓臣との共著、人文書院、2016年)。廣瀬純(ひろせ・じゅん)1971年生まれ。龍谷大学経営学部教授。専門は、映画論、現代思想。著書に、『美味しい料理の哲学』(河出書房新社、2005年)『シネキャピタル』(洛北出版、2009年)、『絶望論』(月曜社、2013年)、『アントニオ・ネグリ――革命の哲学』(青土社、2013年)、『暴力階級とは何か』(航思社、2015年)、『シネマの大義』(フィルムアート社、2018年)。


◎ 新潟哲学思想セミナー(Niigata Philosophy Seminar:通称 NiiPhiS[ニーフィス])とは 
2009年に新潟大学を中心に立ちあがった公開セミナーです。新潟における知の交流の場となるよう、毎回、精力的にご活躍の講師をお招きして、哲学・思想にまつわる諸問題に積極的に取り組んでいきます。参加費、予約等は不要です。どなたでもご自由にご参加ください。

主催:新潟哲学思想セミナー
共催:新潟大学間主観的感性論研究推進センター/同 人文学部研究推進経費
お問い合せは宮﨑まで
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→ポスターはこちら

2018年7月19日

第31回新潟哲学思想セミナーが開催されました。  【NiiPhiS】

第31回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に慶應義塾大学から山内志朗先生をお招きし、「〈その後の〉普遍論争」というテーマのもと開催されました。

IMG_1150.JPG中世における最大の論争である「普遍論争」は、唯名論、概念論そして実在論という三分類図式で捉えるのが通例でしたが、これまでの研究でそれが不適切であるという理解が浸透してきています。しかしながら、そうなると、どのように普遍論争を理解すべきかということが問題となります。山内先生は、『普遍論争』(哲学書房、1992年)において普遍論争を扱ってから、多様な観点から普遍論争に取り組んできたが、その過程では中核にたどり着けずさまざまな問題に直面したとおっしゃっていました。そのなかで、本セミナーでは、『普遍論争』の出版背景の秘話を導入とし、『普遍論争』の〈その後〉の話と、ドゥンス・スコトゥスとオッカムの対比という普遍論争の中心部分が、〈その後〉どのように展開していったかについて話してくださいました。そして「存在概念」に関連したイスラム哲学、オッカムなどに拘らざるを得なかった理由と、その結果報告もなされました。

IMG_1153.JPG普遍論争での三分類図式が不適切であるという見解は浸透しているものの、そもそも「実在論」と「唯名論」の対立軸も曖昧であり、概念の分類だけが一人歩きしています。ここで確実なのは、普遍が事物の中に客観的に実在すると主張する人も、普遍は名のみのものでしかないと主張する人も存在しなかったということであるのです。つまり、普遍論争においては「実在論」VS「唯名論」という二大対立さえ消え失せてしまうのであり、複数個に区別されうるのです。ここで山内先生は、普遍論争は普遍についての論争でなかった、というねじれを示唆しています。しかし、互いを区別し判然とさせるためには、ある種のメルクマールが必要になります。山内先生は、そこで最大のポイントとなるのが「形相性」と「形相的区別」であると主張されます。つまり、形相性と形相的区別が、普遍論争を読み解くカギとなるのです。

IMG_1154.JPG今回の山内先生の講演を通じて、これまでの普遍論争の構造が大きく破壊され、普遍論争によって包まれていた中世哲学というベールがはがされていく感覚をもちました。哲学史のなかでも複雑で難解な中世哲学という分野を理解するうえで、新たな道標となる講演であり、中世哲学をより深く学ぶ必要性を感じるよい機会となりました。そして、山内先生の著書『普遍論争-近代の源流としての』(平凡社、2008年)は、研究蓄積が十分とは言い難い「普遍論争」について論じられている貴重な邦訳文献であると同時に、附録としての「中世哲学人名小辞典」によって多くの知識を与えてくれる入門書と言えます。私自身再読する必要性を感じていますし、皆様にも一読をお勧めします。

最後ではありますが、今回のセミナーでご講演していただいた山内志朗先生に感謝申し上げ、第31回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。

 

[文責=新潟大学現代社会文化研究科修士課程 鈴木大次郎]