第31回新潟哲学思想セミナーが開催されました。 【NiiPhiS】
第31回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に慶應義塾大学から山内志朗先生をお招きし、「〈その後の〉普遍論争」というテーマのもと開催されました。
中世における最大の論争である「普遍論争」は、唯名論、概念論そして実在論という三分類図式で捉えるのが通例でしたが、これまでの研究でそれが不適切であるという理解が浸透してきています。しかしながら、そうなると、どのように普遍論争を理解すべきかということが問題となります。山内先生は、『普遍論争』(哲学書房、1992年)において普遍論争を扱ってから、多様な観点から普遍論争に取り組んできたが、その過程では中核にたどり着けずさまざまな問題に直面したとおっしゃっていました。そのなかで、本セミナーでは、『普遍論争』の出版背景の秘話を導入とし、『普遍論争』の〈その後〉の話と、ドゥンス・スコトゥスとオッカムの対比という普遍論争の中心部分が、〈その後〉どのように展開していったかについて話してくださいました。そして「存在概念」に関連したイスラム哲学、オッカムなどに拘らざるを得なかった理由と、その結果報告もなされました。
普遍論争での三分類図式が不適切であるという見解は浸透しているものの、そもそも「実在論」と「唯名論」の対立軸も曖昧であり、概念の分類だけが一人歩きしています。ここで確実なのは、普遍が事物の中に客観的に実在すると主張する人も、普遍は名のみのものでしかないと主張する人も存在しなかったということであるのです。つまり、普遍論争においては「実在論」VS「唯名論」という二大対立さえ消え失せてしまうのであり、複数個に区別されうるのです。ここで山内先生は、普遍論争は普遍についての論争でなかった、というねじれを示唆しています。しかし、互いを区別し判然とさせるためには、ある種のメルクマールが必要になります。山内先生は、そこで最大のポイントとなるのが「形相性」と「形相的区別」であると主張されます。つまり、形相性と形相的区別が、普遍論争を読み解くカギとなるのです。
今回の山内先生の講演を通じて、これまでの普遍論争の構造が大きく破壊され、普遍論争によって包まれていた中世哲学というベールがはがされていく感覚をもちました。哲学史のなかでも複雑で難解な中世哲学という分野を理解するうえで、新たな道標となる講演であり、中世哲学をより深く学ぶ必要性を感じるよい機会となりました。そして、山内先生の著書『普遍論争-近代の源流としての』(平凡社、2008年)は、研究蓄積が十分とは言い難い「普遍論争」について論じられている貴重な邦訳文献であると同時に、附録としての「中世哲学人名小辞典」によって多くの知識を与えてくれる入門書と言えます。私自身再読する必要性を感じていますし、皆様にも一読をお勧めします。
最後ではありますが、今回のセミナーでご講演していただいた山内志朗先生に感謝申し上げ、第31回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。
[文責=新潟大学現代社会文化研究科修士課程 鈴木大次郎]