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2009年5月 アーカイブ


2009年5月20日

自己紹介  【】

福 田 一 雄 (ふくだ かずお)

言語学を担当しています。言語学には様々な研究分野や研究方法がありますが、私は特にロンドン学派の M. A. K. Halliday が1960年代に創始した選択体系機能言語学(Systemic Functional Linguistics = SFL)に関心があり、研究を続けています。この理論は言語をできる限り包括的、体系的に捉えようとする機能論的、意味論的、テクスト論的、社会記号論的アプローチです。もう一つの研究分野は語用論(Pragmatics)です。コミュニケーションにおける言語を扱う分野で、言語哲学とも深い関係があります。

 現在の主な研究関心

選択体系機能言語学の中でも、私は特に「主題構造論」について考えてきました。Fukuda, Kazuo (2006) Theme-Rheme Structure: A Functional Approach to English and Japanese. Niigata University Scholar’s Series No.5 はその面の中間的まとめです。

最近は、「主題」や「格」の概念に関連して、日本語における「無助詞」の現象に興味を持っています。助詞を伴わない表現です。これは選択体系機能言語学だけでなく、日本語学や語用論にも深い関係がありそうで、大変面白いトピックだと思っています。

その他に、SFL理論によって日本語をどのように説明できるかというテーマや、社会的語用論としてのポライトネス理論が日本語による敬語行動をどのように説明できるか、といったことに関心があります。

研究を離れると、大のスポーツ好きです。たいていは観戦するばかりですが、今でもたまに学生諸君とボーリングに行ったりしています。

2009年5月18日

【哲学ノート】「批判の謎」をめぐって  【】

先日の日本哲学会の研究発表のひとつに、宮村悠介氏の「「純粋悟性概念の演繹」の倫理学的射程──学と智慧」があった。氏によれば、カント『純粋理性批判』第二版の超越論的演繹論は、第一版のそれとは異なって、カテゴリー(純粋悟性概念)の「起源」を明らかにすることを課題としており、これによってはじめて『実践理性批判』におけるカテゴリーの超感性的な実践的使用への道がひらかれるのである。

わたしはこれまで、『純粋理性批判』第二版における改訂は、基本的には「理性批判の先鋭化」として理解できると考えてきた。「フェノメナとヌーメナ」章や弁証論の誤謬推理章における改訂は、純粋なカテゴリーによる悟性的思考の権限を限定する方向へとむかっているように思われるからである。しかし氏のいわれるように、超越論的演繹論ではむしろ実践哲学への展開を睨みながら、感性的経験の足枷からカテゴリーを解放するような方向へとすすんでいる。第二版への改訂は、このような一見すると対立するような二方向を孕み、せめぎあっているのである。

たしかにこのような問題は、それ自体としては周知の学説的事項の一局面にすぎない。よく知られるように、理論理性(思弁理性)を批判的に限定することと、それによって空地となった領野に実践理性を解きはなつこととは、カント哲学の「体系形式」においては表裏一体である。しかしそれはたんに、これまで漠然と考えられてきたように、『純粋理性批判』の弁証論における思弁理性の批判から、『実践理性批判』における純粋実践理性の確立へ、というしかたで段階的に展開されるというのではない。むしろすでに『純粋理性批判』において、理論理性の実効性を保証すべき分析論の、まさにその核心をなす超越論的演繹論の課題のなかに、第二版のカントはあらたに実践理性への進展の出発点を刻みこんだのである。

第一批判から第二批判へのこのような歩みは、カントそのひとの言う「批判の謎」(AA V 5)であり、これまで多くの研究者をのみこんできた深淵である。宮村悠介氏の研究発表は、その深淵を照らしだす一条の光となるもののように思われた。

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