第21回新潟哲学思想セミナーは、講師に明治大学の池田喬先生をお招きし、「誰でもあって誰でもない主体――ハイデガー『存在と時間』におけるダス・マン(ひと、世人)再読」というテーマのもと開催されました。当日は、大学内外から多くの方が足を運んでくださいました。今回のセミナーでは、『存在と時間』における「誰でもあって誰でもない主体」について、池田先生に講演していただきました。とりわけホークランドの指摘を引き合いに出しながら議論が展開されました。ホークランドの見解を受け、池田先生が試みるのは、ハイデガーが世人自己から本来的な自己への実存的変容と呼ぶ自己変化のプロセスを、順応と逸脱の移行という現象として再解釈することです。以下に、とりわけ興味深い点をご紹介します。
『存在と時間』におけるハイデガーは、日常的な世界内存在とは誰か、という問いに対して、誰でもあって誰でもない世人(das Man/ ダス・マン)こそが、日常性の主体であると主張します。世人とは、「ひとは~と言っている(Man sagt...)」という様式で語られる、非人称の代名詞を中性名詞化した表現です。世人は人称を持たないため、「私」でも「あなた」でもない、時空的に特定不可能な存在者です。池田先生は、ハイデガー世人の公共生活を構成するものとして、「平均性」ならびに「均等化」を挙げます。世人が気にかけているのはこの平均性であり、この平均性こそ、ホークランドが言うところの「規範」や「標準」というものに相当します。平均的な規範が気づかわれるさいに問題になるのは、自他の区別であって、標準を尺度とした場合に各々が自らのふるまいの独自性を認識することです。すなわち、ふるまいの類似性ではなく、個性が問題なのです。この平均性は「例外」を監視し、あらゆる存在の可能性を均等化するため、検閲的性格を帯びています。池田先生によれば、このような均等化の検閲機能が向けられるのは、平均的な規範から見たときの奇妙な行動ではなく、その規範に従わないという意味での逸脱です。均等化は、共にいる誰もが規範に従うことによって、共同体のふるまいの尺度としての特権的な地位をその規範に与える機能を持ちます。標準として機能しうる「ひと」は、各々が「ひとは~している」という規範に照らし合わせることによって自己を認識するための尺度であるかぎり、いかなる個人のふるまいとも同一視できません。誰もがそれであり、誰でもない、という「誰でもないもの(Niemand)」としての「ひと」が世人なのであって、これが、日常的なふるまいの根本的規準をなすのです。
今回のセミナーでは、「誰でもないもの」という特定不可能な存在者を標準として、各自は自らとの相違を識別している、という現代の大衆社会を表すハイデガーの議論について触れることができ、自己や他者について改めて考え直す有益な機会になりました。
最後になりましたが、今回のセミナーのために遠方からお越しいただいた池田先生、そしてご出席いただいた皆さまに感謝を申し上げて、第21回哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。
[文責=新潟大学大学院現代社会文化研究科修士課程 宮川真美]
7月11日に毎年恒例「人間学の縁日」が行われました。心理・人間学入門講義に出ている1年生の中から多くの学生が参加してくれました。先輩学生や教員のふるまう屋台メニューを食べながら親睦を深め合う、とても賑やかな会になりました。