赴任した最初の年(1984年)は、その後二十年近く続く「人間学合宿」は始まっておらず、旧・哲学科時代のハードな合宿が存続していた。場所は妙高にある「好山荘」(管理人の不始末から失火し、後に廃業)で夏休みの4日間ほど。(その前に、佐渡島の寺で開催されたときのことを、伝説として、佐藤先生から聞いたことがある。地元の差し入れで、大量の魚、カワハギをもらったが、毎日が同じメニューで難儀したとのこと)。この年の夏、私は数名の学生とラテン語、ドイツ語など辞典類を車で運搬した。学生よりも辞典の方が重かったのではないか? 合宿所での夜は原書講読で、私はその頃熱中していたアナトール・フランスを読んでいた。中日には妙高山登山があり、山頂で撮影した往時の写真をみると学生よりも教官の方が多い。英文科の山影隆先生(故人)も元気な姿で(登山中は私と最下位争いをしたのに)写っている。深沢先生が隊長で、山頂に達すると黙々とラテン語の原書を読んでいた。 登山の習慣はその後「人間学登山」として5月期の二王子山(標高1450mほど)、夏のアルプス登山へと継承されていき、夏合宿は推薦入試の始まった1989年に復活し、昨年2008年まで続いた。(続)
1984年5月に赴任した当時は、私を呼んでくれた渡辺正雄先生(科学思想史・故人)、講座主任の大野木哲先生(哲学史・故人)、猫好きでカネボウのオーデコロンのきつかった児嶋洋先生(現象学・故人)、若いころの宮沢賢治に風貌の似た深沢助雄先生(古代中世哲学)、話すときに「いや、まー」と言い出すことが多く、私のことを呼んでいるのかと誤解することの多かった佐藤徹郎先生(英米哲学、一昨年退官)、すぐにシャーロッキアンであることが判明した山崎幸雄先生(言語学)と私(助手)の七人が人間学講座を構成していた。学生は一学年に4人前後で、まだ存続していた専攻科の学生が資料室に夜遅くまで屯していた。初めてのコンパはよし半でおこなわれ、昭和30~40年代のフォークソングをやたらと唄っていた。終電で帰る学生がいないため、深更まで宴会は続き、その間、佐藤先生と山崎先生は必ず一度は熟睡した。助手の仕事は4年続いたが、思い出してみると仕事らしい仕事をしたことはなかった。一応図書の管理が主たる仕事だったが、人間学の先生方は他人に任せることに慣れていなかったらしく、自分のことは自分でされていた。したがって4年間まったく干渉されずに自由な時間を過ごすことができたわけだ。この年に富士通のオアシス(ワープロ専用機)が初めて講座に装備され、朝日出版の科学の名著シリーズの仕事は、覚えたての親指シフト方式でその原稿を仕上げた。(続く)