第33回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS)は、講師に明治大学の長田蔵人先生をお迎えし、本学からは人文学部の阿部ふく子先生に登壇していただき、「〈コモン・センス〉への問い──近代ドイツ哲学の発展史から」というテーマのもと開催されました。
最初に本学の院生である私の方から、「コモン・センス概念史の概略」として、コモンセンスの古代ギリシアとローマの伝統について簡単な説明を行ない、その後お二人の先生に発表していただきました。
阿部先生は、「コモンセンスと哲学」と題して、そもそも「コモンセンス(常識)とは何か」という問いから出発してお話ししてくださいました。阿部先生は、過去に行なわれた「普通ではないことは非難されるべきことか」という問いでの哲学対話を取り上げ、何もないところからコモンセンスの定義や源泉を探ってみると、コモンセンスと哲学の間にはある種の前提や葛藤があると気づき、両者の境界がわからなくなってしまう、とおっしゃいます。阿部先生は、哲学においては常識と哲学は異なると分断されがちだが、こうした問題には近代の哲学者たちでさえ悩まされていた、と指摘されます。
阿部先生は、このように常識と哲学の関係を論じた哲学者を、近代ドイツの哲学者に絞って紹介されました。18世紀ドイツは、従来の学校哲学から脱却しよう、哲学を世俗化しようという啓蒙思想が興隆した時期であり、一般の人々の「普通の感覚」に配慮した通俗哲学が流行していたと言えます。この通俗哲学は、その後カントや、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論の哲学者に批判されることになります。阿部先生は、このような流れにコモンセンスVS哲学という対立を見ることができる、と述べられました。
さらに阿部先生は、このようにコモンセンスVS哲学という構図をもちつつも、啓蒙思想の流れのなかで、哲学は引きこもりすぎてはいけないし、通俗哲学も通俗化しすぎて骨抜きになってはいけないと使命感を抱いて、それを折衷しようとした哲学者がおり、それがニートハンマーである、と説明されました。ニートハンマーによれば、「常識とは哲学がそれと矛盾をきたさぬよう尊重するべき「至上の声」という否定的な基準」であるとされます。常識はそれ自体で普遍的に妥当することを求めますが、哲学によって否定され、しかし哲学もまた、常識の「至上の声」に矛盾することがあってはいけない、とされます。お互いに矛盾することなく両立し、かつ哲学が優位にあるべきというのが、ニートハンマーの主張です。しかし阿部先生は、こうしたニートハンマーの主張では、「常識の妥当性の要求=哲学の要求する妥当性要求」ということが結びつかず、そこを明確化したのがヘーゲルであると強調されました。
阿部先生は、20世紀にコモンセンスに取り組んだドイツ哲学者としてローゼンツヴァイクなどについても言及され、最後に現段階での関心や問いに触れて、発表を閉じられました。
長田先生は、「コモン・センスの哲学と批判哲学」というタイトルのもと、コモンセンスの哲学に対するカントの問題意識を、トマス・リードの主張に照らして捉え直すことで、カントがコモンセンスの哲学に対して抱いている危惧の内実をより詳しく理解すること、そしてその理解を通じて、コモンセンスではなく理性の立場をとるべきであるとカントが考えるのはなぜなのかということについて、お話ししてくださいました。
カントにおいてコモンセンスが問題となった背景には、いわゆる「ゲッティンゲン書評」において、通俗哲学者であるガルヴェとフェーダーがコモンセンスの立場からカントを酷評していたということがあります。「ゲッティンゲン書評」は、『純粋理性批判』の「純粋理性の歴史」のなかで、カントがコモンセンスに依拠する自然主義的方法が形而上学の方法として不適切であると述べたことに対して批判しており、これを受けてカントは『プロレゴーメナ』で再批判を行なっています。とはいえ、カントはコモンセンス自体を否定していたわけではなく、コモンセンスVS哲学とは考えていない、と長田先生は指摘されます。たしかにカントは、経験的認識や道徳的判断においてはコモンセンスの役割を認めています。長田先生は、カントがしようとしていたのは、こうした経験の世界を超えるような、神や自由といった伝統的な形而上学の問題において、コモンセンスをいかに正当化できるのかということであって、コモンセンスをコモンセンスによって正当化することはできないので、カントはコモンセンスから離れていくことになった、と説明されました。
続いて長田先生は、「思考方向論文」について言及され、カントが、形而上学的問題を考察するうえで自分たちの思考を正しく導いていくのは、コモンセンスなのか理性なのかという問いを設定し、そのうえで理性の立場を取っている、ということを説明されました。メンデルスゾーンが『朝の時間』において、コモンセンスと理性を同根の能力とみなしているのに対して、カントは両者を区別しなければならない、としています。長田先生は、こうした区別の内実はどのように持たせられるのかということを考えるために、トマス・リードの議論に目を向けるべきとして、論を展開されました。
哲学者は、コモンセンスが正しいものを教えてくれるにもかわらず、それをわざわざ理性の法廷にかけて、理性でもって証明しようとしており、それがそもそもの間違いである、とリードは主張します。リードによれば、私たちは物質的世界や心が存在するということを常識的に知っており、それをコモンセンスが教えてくれる信念として理解しています。リードは、そういう信念を成り立たせている原理は、経験的に得られるものでも理性によって証明できるものでもなく、「信念や知識を伴った把促が、単純把促に先行しなければならない」と主張しています。長田先生は、こうしたリードの主張は、カントが超越論的演繹論で述べている、あらかじめ知性が結合したものでなければ、私たちは分析することができないという主張に非常に近く、ヒュームの懐疑論を乗り越えようとするうえで、二人は同じようなアイディアを持っていた、と指摘されます。しかしながら、物質や心の存在といった信念の示唆を受けるというコモンセンスの原理では、自然神学の問題に直結してしまいます。こうしたことを危惧して、原理の妥当性の範囲をきちんと確定すべきだと考えていた点で、カントはリードと異なっていた、と長田先生は強調されます。
さらに長田先生は、こうしたカントの立場を理解するのに役に立つ概念として、「真理の所有」の主張がある、と指摘されます。コモンセンスの主張は、まさに真理の所有であるのに対して、カントは、真理の所有の主張をしようとするのではなく、私たちが真理を獲得できたかできないかを見極める試金石が理性に求められるべきであると考えます。つまり、理性は自分の主張が間違っているかもしれないと考えることができ、だからこそ、理性に信頼がおける、ということになるのです。長田先生は、こうしたカントの主張こそが、常識同士が衝突したときにはどうするのか、ということを考えるうえで役立つのではないか、ということを示唆されて発表を閉じられました。
フロアを交えた議論では、常識のなかにも精査されて保たなければならない常識があるのではないかといった問いや、尊属殺人重罰規定の違憲判決の話と絡めて、社会通念上という文脈の曖昧さについて議論を投げかけるようなコメントもあり、興味深い討議の場となりました。
最後になりましたが、今回のセミナーのために遠方よりお越しくださいました長田先生に感謝申し上げ、第33回新潟哲学思想セミナーの報告とさせていただきます。
[文責=新潟大学現代社会文化研究科博士後期課程 高畑菜子]