久保陽一教授(日本ヘーゲル学会代表)と
エンゲルハルト先生(ケルン)を招いてのシンポジウム
生の矛盾は解消されるのか
日時:3月7日(土)14時00分〜17時30分
場所:
新潟大学駅南キャンパスCLLIC:演習室
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言語学は,ことばの仕組みと働きについて広く学びます。たとえば,1)世界の数多くの言語は,どのように互いに異なっているのか,2)しかし,共通の本質のようなものがあるのだろうか,3)ことばによるコミュニケーションがしばしば失敗するのはなぜだろうか,4)逆に,一見つじつまがあわないやりとりでも,コミュニケーションが立派に成立することがあるのはなぜだろうか,5)ことばは,なぜ,どのようにして,変化するのか,6)日本語と日本社会・日本文化との間には,何らかの関係があるのだろうか,などです。言語学の理論面を中心とする勉強と,ことばの実例のデータ分析を中心とした勉強の両方を行ないます。ことばを分析する能力を養うと同時に,ことばに対する認識を深め,ことばに関する感覚を磨くことが求められます。
この分野には,科学思想史と科学基礎論(科学哲学)が含まれます。科学知識か唯一の正しい知識として真理の地位を保ち続けてきたという,よくありがちな誤解を解き,宗教や思想の影響を受けながら,歴史的に形成されてきたという事実を学ぶのが科学思想史で,今日の科学知識がなぜ信頼できるものなのか,その根拠を考えるのが科学基礎論です。実験や観察をするよりは,実験することで何が証明されるのか,顕微鏡観察による客観的な記述はどのようにして生まれたのかを,原語で書かれた文献や図像資料に直接あたって考察する学問です。
宗教思想史を学ぶことは,特定の宗教を「信じる」ため,あるいは「より深く信じる」ためではなく,なぜ人は宗教を求め,神や仏,運命や宿命を信じるのか,その要因を探ることです。そのために,宗教の構造や型を探りながら,帰依している人の生き方や死に方に宗教がどのような影響を与えているかを学ぶのです。具体的な学習内容は,宗教思想を成り立たせている宗教文書を読むことに始まります。ただし,テキストを読むことでは終わりません。宗教思想を学ぶことは,自分がどのような価値観で生きているのか,何を目的としてどこに向かって生きるのか,そうした疑問を持つことによって支えられているように思うのです。なお,人間学履修コースでは,中国の宗教,儒教,道教,仏教を学ぶことを通して,中国思想史を研究することもできます。
科学技術の進歩によって,従来の倫理観は再検討を迫られることになりました。生命倫理学が取り上げる問題である移植用臓器の配分,中絶された胎児の実験利用,生殖医療や遺伝子治療,さらにはクローン技術の応用による再生医療は,巧利主義的な発想で論じられることが少なくありません。しかし,先端技術の臨床応用について,〈できることをするべきだ〉とばかり進めてゆくなら,〈するべきことを行う〉ところに成り立つ人間の尊厳に反する形で暴走しかねません。医療技術と倫理との対話を試みるのが生命倫理学です。また,現代の消費文明が便利で豊かな生活を追求した余り,地球規模の深刻な環境破壊を招いてしまったことへの反省から生まれたのが,環境倫理学です。将来の世代に,今日の私たちが享受しているように,美しい環境の中で豊かで快適な暮らしを送る権利があるのなら,つまり私たちに将来の世代へ美しい地球環境を残す責務があるのなら,資源を大量に使い,環境を汚染する消費文明は私たちのエゴイズムに他なりません。技術を通して人間が自然を創造する力を得た時代に生きる私たちが,自らの生き方を問い直して,日常生活を自覚的にするところにこそ,今日の倫理学の課題があるように思われます。
哲学の出発点は,一つの問いに徹底的にこだわることにあります。たとえば,「自分とは誰か」,「自分が死んだらどうなるのか」,「他人の本当の〈気持ち〉は分かるのか」,「〈心〉と〈身体〉,〈理性〉と〈情念〉とが時に矛盾するのはどうしてか」などという疑問がふと心に浮かんだ体験は誰にでもあるでしょう。こうした問いを心のどこかで反芻しつづけるとき,ひとは否応なく哲学の迷路のなかに足を踏み入れることになります。そして哲学者は多くの場合,同じような問いを発した過去の哲学者たちの思想から学ぼうとします。しかしそれは,他人の解答やテクニックを借りて問題を解決するのではなく,過去の思索の跡であるテキストを辿りなおし,読み解くことで,同じ問題に一層深く関わるためです。哲学とは,無限に繰り返されてきた問いを,常に新たに考え直していく学問だと言えるかもしれません。